タルタリア帝国は煉瓦造りの建造物が多いようです。
煉瓦。
煉瓦建造物を探索に行って来ました。
岡山県備前市には煉瓦会社が数ある中で三石耐火煉瓦工場は最も古く明治25年に創業。
東京白煉瓦製造所と並んで最高ランクの耐火度を示しその品質の高さが注目を集めました。
そして、三石耐火煉瓦はろう石が原料で多量に産した地域は、国内だけでなく海外でも例がありません。
戦争が始まると、軍艦のボイラーのための耐火煉瓦が必要になり、三石煉瓦製造所は軍艦の指定工場になったそうです。
とても優れた煉瓦を生産していたんですね。
備前市三石には所々に煉瓦が残っています。
工場はたくさんあるのに煉瓦造りの建物はあまりありませんでした。
煉瓦の煙突がたくさんあります。
備前焼の土は、「田土(ひよせ)」と呼ばれるたんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土と、山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を多く含む土で焼くことによって備前焼きの魅力である茶褐色が現れるのだそうです。
そして、この備前焼を焼く窯は煉瓦!
煉瓦は熱が逃げにくいため。
窯焚きには赤松を使うそうです。
備前市は本当に煉瓦の街ですね!
三石の煉瓦は蝋石だけど、一般的には、粘土や頁岩、泥を型に入れ窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られます。
日本にもたくさんの煉瓦建造物があったようですが、地震に弱いという難点があり、関東大震災では多くの被害を出したそうです。
関東大震災前の東京
みごとにタルタリアですねー!
1923年9月1日関東大震災が起きその後の東京
当時の洋風建築の主流であった煉瓦造りの建物は8割強が全・半倒壊。
タルタリア建造物はほとんど無くなってしまいました。
それにしてもすごい被害ですね。
そして関東大震災の一年後に復興した東京。
タルタリアの煉瓦建造物はもう再現されず、木造の建物ばかりになっています。
しかし東京駅や日本興業銀行などには損傷がほとんどありませんでした。
この建造物を施工したのは大林組。
その実績が評価されて大林組は帝都復興の多くの工事を担うことになったそうです。
大林組は、1892年(明治25年)創業。
明石海峡大橋、太陽の塔、関西国際空港、東京スカイツリーなど他にも有名な建物を建設しています。
すごいですね!
この東京復興の都市開発を担ったのが後藤新平。
この方、医者でその後、政治家、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。
そして、「赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」とあります。
やはり、大掛かりなことをするにはフリーメーソンでないとできないのかな?
赤十字、ボーイスカウト、フリーメーソンというワードが氣になります!
そして、このワードから想像してしまうんだけど、東京復興の都市開発の時にもしかして地下もたくさん作っていたりして!
と思って調べてたら、なんと!「地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった」とあるではないですか!
大正14年(1925年)9月27日には浅草 - 上野の地下鉄工事を既に開始し、関東大震災後の昭和2年に開業しています。
早川徳次は自分の娘に「いつかきっと、東京中がクモの巣のように地下鉄で張り巡らされる日が来るだろう」と言っていたそうですが、本当にその言葉通りになっていますね。
そして地下鉄工事の際、東京の軟弱な地盤は地表から210メートルから240メートル程度に過ぎず、その下には固い地層があることを確証する。とあります。
この210メートルから240メートルの軟弱な地盤とは、もしかしたら泥の洪水の際の土?
色々想像してしまいます。
あと、関東大震災後に電力会社の統合が進んでいます。
関東大震災は1923年。その3年後は昭和です。
関東大震災というのは、それまでの明治時代からの日本を一掃するかのような出来事のような氣さえしてきます。
とても興味深いです。
いやー、本当に歴史って調べると知らないことばかりで面白いです。
こういうのを学校の歴史の授業で学ばせてくれれば楽しく授業ができたのにね!
まだまだ調べたいけど、今日はこの辺で・・
それにしても、歴史っていったい何なんでしょうね!
あ、煉瓦って蓄電できるので、煉瓦の家に住めばずっと健康でいられるんじゃないかな?
そうだとするとますます怪しいにおいが・・
まだまだ続きます♪